こんにちはKJです!
今回は本のレビューです。
著、ヴィクトール・E・フランクの「夜と霧」はアウシュビッツ収容所での過酷な生活、また精神状況について描いた本になります。
著者自身が心理学者ということもあり、この本は単純に本人の体験談に留めることなくそこでの精神状況、また精神状況の変化への踏み込んだ考察も述べているところが、その辺にある自伝やエッセイとは一線を画しています。
今回は夜と霧で印象に残った内容についてでも共有します。
人間の苦悩は気体の塊のよう
本書の中で僕的に一番響いた主張です。
アウシュビッツ収容所に連行され、服を引っぺがされ全身の毛もそがれ、シャワー室に捕虜たちが並んでをシャワーを浴びさせられる。。。
こんな状況下でまずその場にいた人間の精神状況はある種の「ユーモア」、また「好奇心」で満たされていたと著者は言っております。
これから自分たちにどんな状況が待っているのか、周りにいる人間と冗談を言ったりしはじめるとのこと。
そして、自分のおかれている状況を一歩引いた目で傍観するような好奇心で満たされていたようです。
人間はあまりにも現実的でない非日常の状況に立ち、素直に現実を受け入れられないような場面ではユーモアと好奇心を持つというわけです。
また、生活を送っていく中でも過酷な状況下でもある種の冗談を言いあったりするようにしていたようです。
ユーモアへの意思というのはたとえ小さなことでも生きるための姿勢として必要なことであると著者は主張しています。それを気体に例えてこう言います。
「気体は濃さに関わらず空間に注入されると均一に広がっていく。苦悩も同じように大小に関わらず人間の魂、精神に行き渡る。苦悩の「大きさ」はどうでもよく、だから逆にほんの小さなことも大きな喜びに変わる。」
良いですよね。大小は関係なくささいなことも大きな喜びに変わり得るというのを過酷な状況下で思えるのは凄いことですよね。
脆弱な人間とは心のよりどころを持たない人間
ヴィクトールは想像を絶する過酷な状況において、精神的に不安定になるもの、恐ろしいほどに残虐になるものもいたが、決して自分を見失わずに思いやりのある行動をしていた人間もいたと言っています。
どんなに過酷な状況においても人間の精神的自由は存在し、自分の生を意味深いものにすることができると主張しています。また、脆弱な人間は心のよりどころを持たない人間であると。
過酷な状況にいても人間は「自分らしさ」を捨てずに振る舞えるのです。
外的な状況に左右されてしまうのは「自分」という独自性が弱いからなんですね。
これは響きますね。外的な環境に左右され自分を見失ってしまうというのはそれまでの人間ということでしょうか。
過酷な状況でも人間の尊厳や誇り、自分がありたい自分でいれる人間も少なからずいるわけですね。
人間は何事にも慣れる存在である
本書ではアウシュビッツ収容所での過酷な生活についてまざまざと描写されています。
そこでの生活を過ごしていく中でヴィクトールが気づいたことは「人間とは何事にも慣れる」ということです。
一日の食事がパン一切れなど、質素なんてレベルではない食生活、かつ歯磨きもしていなかったのに歯茎は以前の健康状態より良かった、
傷だらけの手は土木作業で汚れていたのに傷口は可能しない、
足もろくに伸ばせないベットで爆睡できるようになる、、、
人間の適応力ってすごいですね。僕らも日々生活していると文句を言いながらも「慣れて」結局自分がいる環境から中々でなかったりするじゃないですか。
どんなひどい状況においても悲しいかな慣れてしまうんですね。
まとめ
今回は「夜と霧」で印象に残ったことについて共有しました。
自分を取り巻く環境に関係はなく、精神的な「自分」の確立こそが人生を意味あるものにする、というのが本書の一番のメッセージだと感じました。
人間が過酷な状況に置かれているなかでの心理状況ってのはなかなか想像がつかないものですが、我々の生活にあてはめてみても本書を読んで考えさせられることはあるでしょう。
興味がある方は一読してみてください。